体が固くなるように、年を取ると、徐々に心も固くなる。 柔軟な心を持って年を取る事は、ホントに大変な事だと思う。 昔、尊敬する年寄りから「感受性を持ち続けなさい」と言われたけれど、 年を重ねると、それが何故大切か、皮膚感覚で感じるようになった。 心の柔らかい(固い)年配者に出会うと、それを実感する。
安田先生、こんばんは。 私は、最近、他人に不寛容な人は、自分にも不寛容なのかなと思うようになっています。 つまり「こういう自分であってはいけない」「こういう自分でなければいけない」「これだけは絶対に許されない」「これだけはしなければいけない」と言うように、自己規定が多い人は、自分にも他人にも不寛容なのではないでしょうか。そして、自分に課した規定に外れた姿を、自分に、そして他人に見出してしまうと、それを許容することができない。よく言えば、自分にも他人にも厳しいと表現できるかもしれませんが… お年寄りは、そういう自己規定が積み重なっているのかも…? なんて、すこし偉そうなことを言ってみました。いつも、すみません(笑) 返信
ああ、それ良くわかります。 というか、僕もそう思っていました。 ただ、自分に厳しい(不寛容)わけではなくて、なんていうんでしょうか、価値観の違いというのでしょうか。 大体、他人の行動で気に入らないのは、僕ならそのような行動はしないぜ・・・という行動を見た時。 で、イラっとするんですね。 逆に、こんなことぐらいいいじゃん、と思ってることで怒られたりするんですが、その場合は、相手がこんなことぐらいいいじゃん、と全然思ってない・・(笑) それが、国レベルで大きくなると戦争に繋がっちゃうんでしょう。 しかし、瞬間的に来たイラっ!は、意識的に時間を置いたり、相手はなんで怒ってるんだ?と冷静になることで抑えることができます。 怒りは脊椎反射だけれど、寛容は理性です。 返信
東北学で有名な赤坂憲雄氏はこう言っていました。 「東日本大震災で『○○には何が可能か』というように自己規定から援助を始めようとした方は、結局何もできなかったよね」 今の世の中は、サイバースペースの登場で、言葉の自動記述かつ永久保存状態になっています。一昔前「忘れられる権利」という言葉が話題になりましたが、現代は「言葉」が消去できない状況に陥っています。だから、私の身の回りのある言葉は、法律、歴史、慣習、社内規則、社内風土という形としてどんどん膨れ上がっている。 社会人は、社会に課された規定を、自己の規定にしなければいけないわけですから、現代では、昔の人よりも自己規定の数が膨大に増えている。倫理観と道徳観の向上と隣り合わせとはいえ、そのために、現代は昔より「不寛容な社会」となってしまっている。かなり突飛な発想ですが、ここで赤坂先生の言葉を絡めると、言葉がストックされ続け、私たちの自己規定の数が増えていけば、私たちは個人としても、社会の単位でも完全な行動不能状態に陥ってしまうのではないでしょうか。 私はこの予測を、法律、安全、施主の要求、地域の要求(地域への配慮)の均衡点を限られた予算内で探ることに苦慮している建築家の姿と重ねています。このまま言葉が増えていくと、「法律、安全、施主の要求、地域の要求」のすべてが増えていきます。その状況で、建築家は均衡点を探ることができるのか。私はそう不安に感じています。 と偉そうなことを、ほとんどJ・ボードリヤールの受け売りとしていってみました(笑) 返信
それは、ボードリヤールのなんていう本に書いてありますか? こんど読んで見ます。 新しい時代に相応しい言葉を重ねる場合に、過去の文章は書き換えられるわけではなくて上書き別保存みたいのが今の建築基準法ですね。だから、「長屋の介壁は天上上まだ達することで遮音性能を確保せよ」なんていう、江戸時代かおまえは!みたいな法律が未だ残っています。(笑) まそれは良いとして、確かにこの時代、建築は規制をくぐり抜けることに手一杯で、公共施設で独創性のある仕事をするのは大変な時代です。アトリエ建築家が1人の構想力でそれを実現するのは不可能でしょう。ユニークかつ独創的な仕事は、どんどん小さな建物になっています。 ただ、建築はいつの時代でも、「その時代」を反映させています。ということは、アーカイブを含む上書き別保存の集積が現代とすると、今後も恐らく続くであろうことが予想されるとすると、それに相応しい建築のつくり方、都市のつくり方、が、「今」を反映させているのかもしれません。その中から、建築理論なり、歴史に残る建築が出来て来るのかな?とも思います。 もしそれが出来なかったら、100年後の歴史家からは、2010年代20年代は建築不毛の時代だね、なんて言われますからね。 返信
ボードリヤールはニーチェの影響を色濃く受けた人で、私がいちばん好きな思想家です。 ボードリヤールは、私がコメントしたことを「表象の世界」「インテグラルな世界」という言葉で表現しています。しかし、ボードリヤールは表現がかなり独特なので、注意してください。私はドハマリの思想家ですが、読むのに少しコツが必要だと思います。ボードリヤールの著書の中で一番読みやすいのは『Jボードリヤール×吉本隆明 世紀末を語る あるいは消費社会の行方について』(NTT出版2003年)です(吉本隆明レベルでも、ボードリヤールにボコボコにされています)。あとは『悪の知性』(NTT出版2008年、私の一番のお気に入りです)、『完全犯罪』(紀伊国屋書店1998年)、『不可能な交換』(紀伊国屋書店2002年)も、私は好きです。『消費社会の神話と構造』(1970年)はボードリヤールの出世作で、最近新訳も出版されましたが、すこしだけ時代を感じる部分があります。 『われわれはもっとも欠如しているのは現実であるという幻想を生きていますが、じつはその反対に、現実はありあまっています。われわれをとりまいているのは、現実がすでに完了し、それゆえ潜在的に完成されたという状況です』(「Jボードリヤール×吉本隆明 世紀末を語る あるいは消費社会の行方について」から) 『自発的意思さえも、想像力から退却してしまった』 『現実への情念、真実への情念は消えた』 『現実への義務、真実への義務だけが、あとに残った』 『今後は、われわれは、それらを信じる必要がある。表象システムを機能不全に関して、いたるところに懐疑が定着しているが、それと同時に、現実は絶対的な指令となり、ひとつの道徳的秩序の基礎となっている。事実も存在も、現実原則にも、道徳的提言命令にもしたがわないのだ』(「悪の知性」から) ボードリヤールの著書を少しだけ引用すると、こんな感じです。参考になれば幸いです。 返信
安田先生、こんばんは。
私は、最近、他人に不寛容な人は、自分にも不寛容なのかなと思うようになっています。
つまり「こういう自分であってはいけない」「こういう自分でなければいけない」「これだけは絶対に許されない」「これだけはしなければいけない」と言うように、自己規定が多い人は、自分にも他人にも不寛容なのではないでしょうか。そして、自分に課した規定に外れた姿を、自分に、そして他人に見出してしまうと、それを許容することができない。よく言えば、自分にも他人にも厳しいと表現できるかもしれませんが…
お年寄りは、そういう自己規定が積み重なっているのかも…?
なんて、すこし偉そうなことを言ってみました。いつも、すみません(笑)
ああ、それ良くわかります。
というか、僕もそう思っていました。
ただ、自分に厳しい(不寛容)わけではなくて、なんていうんでしょうか、価値観の違いというのでしょうか。
大体、他人の行動で気に入らないのは、僕ならそのような行動はしないぜ・・・という行動を見た時。
で、イラっとするんですね。
逆に、こんなことぐらいいいじゃん、と思ってることで怒られたりするんですが、その場合は、相手がこんなことぐらいいいじゃん、と全然思ってない・・(笑)
それが、国レベルで大きくなると戦争に繋がっちゃうんでしょう。
しかし、瞬間的に来たイラっ!は、意識的に時間を置いたり、相手はなんで怒ってるんだ?と冷静になることで抑えることができます。
怒りは脊椎反射だけれど、寛容は理性です。
東北学で有名な赤坂憲雄氏はこう言っていました。
「東日本大震災で『○○には何が可能か』というように自己規定から援助を始めようとした方は、結局何もできなかったよね」
今の世の中は、サイバースペースの登場で、言葉の自動記述かつ永久保存状態になっています。一昔前「忘れられる権利」という言葉が話題になりましたが、現代は「言葉」が消去できない状況に陥っています。だから、私の身の回りのある言葉は、法律、歴史、慣習、社内規則、社内風土という形としてどんどん膨れ上がっている。
社会人は、社会に課された規定を、自己の規定にしなければいけないわけですから、現代では、昔の人よりも自己規定の数が膨大に増えている。倫理観と道徳観の向上と隣り合わせとはいえ、そのために、現代は昔より「不寛容な社会」となってしまっている。かなり突飛な発想ですが、ここで赤坂先生の言葉を絡めると、言葉がストックされ続け、私たちの自己規定の数が増えていけば、私たちは個人としても、社会の単位でも完全な行動不能状態に陥ってしまうのではないでしょうか。
私はこの予測を、法律、安全、施主の要求、地域の要求(地域への配慮)の均衡点を限られた予算内で探ることに苦慮している建築家の姿と重ねています。このまま言葉が増えていくと、「法律、安全、施主の要求、地域の要求」のすべてが増えていきます。その状況で、建築家は均衡点を探ることができるのか。私はそう不安に感じています。
と偉そうなことを、ほとんどJ・ボードリヤールの受け売りとしていってみました(笑)
それは、ボードリヤールのなんていう本に書いてありますか?
こんど読んで見ます。
新しい時代に相応しい言葉を重ねる場合に、過去の文章は書き換えられるわけではなくて上書き別保存みたいのが今の建築基準法ですね。だから、「長屋の介壁は天上上まだ達することで遮音性能を確保せよ」なんていう、江戸時代かおまえは!みたいな法律が未だ残っています。(笑)
まそれは良いとして、確かにこの時代、建築は規制をくぐり抜けることに手一杯で、公共施設で独創性のある仕事をするのは大変な時代です。アトリエ建築家が1人の構想力でそれを実現するのは不可能でしょう。ユニークかつ独創的な仕事は、どんどん小さな建物になっています。
ただ、建築はいつの時代でも、「その時代」を反映させています。ということは、アーカイブを含む上書き別保存の集積が現代とすると、今後も恐らく続くであろうことが予想されるとすると、それに相応しい建築のつくり方、都市のつくり方、が、「今」を反映させているのかもしれません。その中から、建築理論なり、歴史に残る建築が出来て来るのかな?とも思います。
もしそれが出来なかったら、100年後の歴史家からは、2010年代20年代は建築不毛の時代だね、なんて言われますからね。
ボードリヤールはニーチェの影響を色濃く受けた人で、私がいちばん好きな思想家です。
ボードリヤールは、私がコメントしたことを「表象の世界」「インテグラルな世界」という言葉で表現しています。しかし、ボードリヤールは表現がかなり独特なので、注意してください。私はドハマリの思想家ですが、読むのに少しコツが必要だと思います。ボードリヤールの著書の中で一番読みやすいのは『Jボードリヤール×吉本隆明 世紀末を語る あるいは消費社会の行方について』(NTT出版2003年)です(吉本隆明レベルでも、ボードリヤールにボコボコにされています)。あとは『悪の知性』(NTT出版2008年、私の一番のお気に入りです)、『完全犯罪』(紀伊国屋書店1998年)、『不可能な交換』(紀伊国屋書店2002年)も、私は好きです。『消費社会の神話と構造』(1970年)はボードリヤールの出世作で、最近新訳も出版されましたが、すこしだけ時代を感じる部分があります。
『われわれはもっとも欠如しているのは現実であるという幻想を生きていますが、じつはその反対に、現実はありあまっています。われわれをとりまいているのは、現実がすでに完了し、それゆえ潜在的に完成されたという状況です』(「Jボードリヤール×吉本隆明 世紀末を語る あるいは消費社会の行方について」から)
『自発的意思さえも、想像力から退却してしまった』
『現実への情念、真実への情念は消えた』
『現実への義務、真実への義務だけが、あとに残った』
『今後は、われわれは、それらを信じる必要がある。表象システムを機能不全に関して、いたるところに懐疑が定着しているが、それと同時に、現実は絶対的な指令となり、ひとつの道徳的秩序の基礎となっている。事実も存在も、現実原則にも、道徳的提言命令にもしたがわないのだ』(「悪の知性」から)
ボードリヤールの著書を少しだけ引用すると、こんな感じです。参考になれば幸いです。
御返事ありがとうございます。
ちょっと難しそうだな。(笑)
ボードリヤール×吉本隆明 あたりから、読んでみます。