先日の4/22に、西沢立衛氏が「コルビュジエの作品集」について語るというので、横浜国大まで出かけた。
会場に行くと、溢れんばかりの聴衆で大盛況。
立見かな、と半ば諦めていると、主催者の一人である大西さんに出会し関係者席へと案内された。
座れてホッと一息。
レクチャーの内容は、昨年本になった「立衛散考」での「コルビュジエの作品集」についての考察がベースであった。
豊富な語彙と巧みな例え、なによりパワーある語りとその熱量、が話をより切実なものにしている。肉声を聞くことの重要性を改めて感じた。
というわけで、あっという間の約1時間半だった。
トーク終了後質問タイムに入る。富永譲さんの話や南俊允さんの質問で盛り上がった後、司会の大西さんから不意に僕が指名された。
突然のことで言葉に窮したが、振ってくれた大西さんや西沢氏に対して申訳ないと思って必死に言葉を紡いだ。
僕は、詩(うた)について、質問した。
「詩」はレクチャーで触れていたし、「立衛散考」でも何度か出ていたので、キーワードになると思った。
モヤモヤした気持ち=気分は、言葉にすることで(気持ちを)整える、それが詩(短歌)が生まれた起源ではないのか。
コルビュジエの作品集で言えば、もやもやした空想のようなものを、「形」「言葉」などでアウトプットする、それがコルビュジエの創作であり、そのプロセスが作品集に表記されているのではないか?
そして、さらに(今日のレクチャーで言えば)その作品集を読む西沢氏は、コルビュジエへのもやもやしたこと(謎?)を言葉にすることで、(認識や考えを)整えているのではないか?
(詩(短歌)が生まれる過程と同じではないのか?) と。
しどろもどろだったが、我ながら頑張って質問した。
西沢氏の答えは素晴らしかった。
「もやもやしていることを言葉にする、それは確かにその通りだけど、僕にとって(もっと大切なこと)は、言葉にすることで、自分(の考え・認識)が、変わる」
だった。