更新情報  2024/06/13

槇文彦氏の訃報

建築家の槇文彦さんが亡くなった。
建築界の気品というか良心というか、多くの人からリスペクトされる方だった。

僕にとっては、特に印象的な思い出が2つある。

一つ目は、JIAでの槇さんの講演会。確か2013年ごろ。
当時僕はJIAの役員で、この講演会企画の裏方をやっていた。

槇さんはその講演会を、「質問に答える」やり方でしたい、と言われた。
僕を含むjiaの役員が数人集まってそれぞれ質問を考え事前に槇さんに手渡し、
当日はそれに答えるという、槇さんの希望に沿った講演会となった。

結果、多くの視聴者も満足する素晴らしい講演会になったが、
実は、情けないことに、この時の僕の質問内容をよく覚えていない。

ただ、槇さんの答えは覚えている。

槇さんの話は、少年時代から始まって、当時軍国少年だった槇さんは、日本の海軍が好きだったそうだ。零戦などの戦闘機(当時は海軍)が好きで、本当は飛行機の設計をやりたかったのだと。

敗戦でそれが叶わず、当時信頼のおける親戚(知人?)のアドバイスで、これからは建築がいいと言われたらしい。大学の進路を決める際に建築学科選択したのが、建築の道に進むきっかけだった。という内容だった。
その後も建築家になる経緯の話が続いた。

記憶を辿って、徐々に思い出す槇さんの答えから察するに、当時の僕の質問は、

「槇さんは、なぜ建築家になったのですか?」

というような、小学生程度の質問だったのかもしれない。
でも槇さんの話しっぷりはよく覚えていて、とても生き生きとしていたというか、昔を懐かしむような良い表情で、言葉を選びながら話されていた。

二つ目の思い出は、某雑誌社から、展覧会の報告コラムの依頼があり、その原稿を寄稿したこと。

2020年に横浜新市庁舎が完成した際に、BANKARTで、槇さんと村野さん(横浜旧市庁舎設計者)の合同展「M meets M」が行われたのだけど、その寄稿。

この時、依頼された原稿は1600文字程度で、半ページだったのだが、
僕の方から「見開き」で、3400文字程度に、変更してもらった。

もっと書かせろ!と言うわけだ。

今にして思えば、何様?って感じだけれど、でも書きたかったのだから、しょうがないです。

文章をかいつまんで説明すると、槇さん、村野さん、共に、市庁舎を設計する際に、「市民のための建築」「他者をリスペクトした建築」を終始考えていた、と言う内容。と同時に、誰にも犯されたくない、自分の世界観を持っていた、と言うこと。一見矛盾するこの二つの狭間で、設計作業に取り組んでいた、と言う内容だった。

コラム

この文章を書いて良かったと今でも思っている。僕自身が襟を正す意味でも、一度言葉にしておいて良かった。

謹んで、ご冥福をお祈りします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA